2011年3月24日木曜日

楽観主義の果て

原発事故に関して海外メディアに対する批判が日本の報道で見られるのは、未だに日本のメディア事情、情報に対する受け止める市民の能力が20世紀初頭以来あまり成長していないのでは、と考えさせられる一件であります。震災後を通じて、特に専門的な用語を並べ立てて煙に巻こうとする輩の思惑通り、そしてよく分からない事象を一字一句覚えようとするあまり、ものの本質から随分離れた議論がなされている気がします。

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原子炉や廃棄物のコントロールはおろか、何が生じているのか正確に把握出来ていない状態にも関わらず、「現時点では問題は無い」という説明を繰り返し、挙げ句の果てに数度の爆発と放射能漏れ。必要な情報が根拠のない安心感を与えるものか、それとも合理的な選択を行うための事実ないし可能性を示すものかを問うとすれば、おのずと必要な情報は見えてくるはずであります。にもかかわらず、「パニックを防ぐ」という理由で、可能性に過ぎない情報を排除するならば、状況を把握出来てない現状では、ほとんど事後的な情報しか与えられないことになります。

パニックを防ぐ、という理由は、あるある大辞典の納豆ダイエット騒動のように、あるいは水の買いだめのように、比較的現実的な理由とはなりそうです。仮に問題が情報に対して過剰な反応を起こす市民にあるとしても、情報が限定的にしか与えられていない不安感に起因するのか、それとも客観的に判断する能力が欠けているが故なのか、様々な要素が考えられます。それでも、こうしたパニックを避けるという言説は、情報の受け手の能力の否定であり、バカだから情報を与えないという傲慢な議論。そしてこうした言説自体、現実を直視することを避ける方向にしか働かない故、全てのネガティブ事象が想定外という根拠のない楽観主義に基づいた説明も問題なく受け入れる始末。そんな情報に対して信頼感をもてるというのは、人がいいというか何というか。

間違った記事を寄せ集めて、日本のメディアは素晴らしいと自画自賛する前にやるべきことは山ほどあります。例えば、地元紙GPでも1号機の建屋の天井が吹き飛んだ翌々日朝には平均的な気象状況に基づいたシミュレーションを解説するグラフィックを掲載、どの地域におよそ発生源付近の何%ほどが他の地域に拡散するか、直感的に分かるようになっています。水道、物流といった人的影響は考慮されていないものの、考えられるシナリオの提供の早さにはただ驚かされます。NHK(海外版)が専門家に原子力発電って何?メルトダウンって何?というおバカな質問をしている間に、こっちの一地方紙でさえどの程度深刻な可能性があるのかを書いています。悲観論、センセーショナルと切り捨てる前に、多角的な情報の重要性を認識するべきであります。メディアの役目がただ、役所や企業の発信する情報を垂れ流すだけならば、そういった情報の価値は非常に限定的なものです。ことに情報公開に消極的な風土の強い日本で、メディアの役割は本来もっと持って然るべきで、また求めるべきでもあります。(以下略)

2011年3月21日月曜日

バランスチェア

こっちにきた時にIKEAで購入したチェアが先日壊れました。溶接が明らかに不足していて欠陥品の一言。構造的に両側溶接するであろうところが、片側だけしかも少しだけ。そこがバッキリと折れたというか、外れたというのが近いかな。まぁ全部が全部チェック出来るわけではないんだろうけど、このあたりの品質に対するポリシーはあまりよろしくないという印象を受けました。IKEAのページを見ても消費者に対する責任をどのあたりまで取るかあんまり明確にしておらず、スウェーデンっぽくないというお話。長期保証の商品に関しては長々と説明があるんだけど・・・。

ともかく、製造物責任云々の話をするのは面倒くさいよねという話で相方の実家で溶接をしてもらうことに。溶接ならまぁ10分で終わるだろうから。代わりに相方の実家に眠っていたバランスチェアを頂くことに。

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バランスチェア、背筋がピンと伸びる、という代物だけど、今ひとつリラックス出来ないので物置で眠らせる人が多いのも事実。今使っている机は自分の身体には若干大きく、イスの位置を高くすると机に足が挟まり、それでもパソコンのモニタを見上げる形になって、高さが足りないのという状態。今日試してみた時点ではとりあえず余裕でモニタより上に頭が来る位置に出来て、非常にいい感じであります。

2011年3月10日木曜日

ルイ・ヴィトンの恐怖

ブランド品の多くは知的財産権関連法において保護されていて、コピー商品やら模倣品やらが規制されるのは、それを考案した人が利益を収めるべきという観点から理解出来るところ。一方で、何もかもを権利として認めた場合に経済的にであれ、思想的にであれ保護に伴う弊害もあり、そうした知的財産をどの程度保護すべきであるか、という問題は常に考えるところであります。昨日のDNのルイ・ヴィトンに関するニュースは、そんなことを改めて考えさせられました。

事の発端は、ダルフール問題に関わっているデンマークのアーティスト、Nadia Plesnerが、パリス・ヒルトンをモチーフに、ルイ・ヴィトンっぽいバックを片手に子犬を抱えているダルフールの子供を描き、そのTシャツを販売した。なおその収益は現地へ送る医薬品を始めとする支援物資に充てられた。これに対してルイ・ヴィトンが販売中止と損害賠償を求め提訴、本人の不在時に訴訟が行われたため反論がないまま訴訟自体は終結。その額現時点で20万ユーロ(ざっと2000万円)也。さらに今では弁護士費用その他諸々1日5000ユーロ(50万円)払え、とそういう話であります。当時の自分の弁護士に「絵画にすれば問題ないんじゃん」と言われ早速作成、その後の混沌とした争いが続き現在に至ります。

ルイ・ヴィトンの言い分としては、会社としてダルフール問題を助長する活動を行っているわけではなく、こうした問題と関連づけられることで不利益を被っている、と。Nadia Plesner の作品がルイ・ヴィトンを直接的に批判している訳ではなく、そうした豪華絢爛なライフスタイルがある一方でダルフールの子供達には無縁のニーズであることを暗に示しているに過ぎません。ルイ・ヴィトンの論理は相当な被害妄想を含んでいて、大人のブランドを扱うにしてはちょっとアブナイ会社なのかもしれません。

営利活動と表現活動の区別は実のところさくっと割り切れる訳ではありません。ピカソがその生涯にいくら稼いだかを考えると、収益性がある=アートではない、と単純化することはできません。時に重要なメッセージを含んでおり、またアーティストが職業である限り金銭授受と無縁にはなり得ません。他方で、ブランドを利用することで莫大な収益を上げるとすれば、アートであろうとパロディであろうと、そりゃぁないんじゃないのか、という話になります。

ただ、そもそもブランドそのものを表現内容の一部として利用することが、同意ないし黙示の同意が無い限り扱うことが認められないとすれば、およそブランドに関して批判的な報道を行うことは不可能になります。商標を始めとする知的財産権にそこまでの保護を与えるべきかどうかで言えば、否としかいいようがありません。

現在もNadia Plesner のサイトの削除を要求しているものの、おかげで各地の新聞に無修正で転載されてます。彼女の作品が名誉毀損的な性格を実際に帯びるのであれば、まず影響力のある新聞に対してアクションを起こすべきであって、そんなことをせずにあくまで作者個人を狙ってせっせと圧力をかける姿勢は、某武富士の恫喝訴訟と重なります。結局の所、ルイ・ヴィトンが一連の行動で示しているのは、徹底的な不寛容であり、コミュニケーション不能な姿勢であります。それで一流を名乗るのはちょっとね。

他のブランドだって同じ、という指摘もありそうですが、それはまた別の話。このあたりの活動に理解を示すかどうかは企業により温度差があります。ま、機会があればそのへんも。ともあれ被害者面したルイ・ヴィトンが様々な方面に恐怖心を与えたのは間違いなく、かなり注意深く扱わなければいけない存在となりつつあるのかも。あ、もう書いてしまったけど大丈夫カナ、とおどけてみたり。

(本稿執筆後、ルイ・ヴィトンからのコメント付きの続報あり。油絵の制作・公開は問題ないと態度を変更したものの、Tシャツに関しては相変わらず。制作者が不誠実で話し合いに応じなかったというような話をしてるものの、問題は「話し合い」の中身であります。この記事からみると結局のところ、ルイヴィトンのコメントは個人攻撃に終始して問題を解決する意志はないようであります。)