2010年10月24日日曜日

情報源

今学期、歴史の授業をまた取っていますが、授業は歴史そのものではなく事実の評価方法を学ぶということに主眼があります。日本においては、正しい歴史が存在する(べき)という発想がそもそも歴史を評価する上での障壁となっていると思われます。ここでいう正しさと、正確性や客観性とは異なる概念ということだけ述べておきます。史実の評価手法は、用語は違えど現在進行形の事象を評価する方法とも密接に関連します。

事実に基づかない主張・批判は、それ以上でもそれ以下でもありません。

神がかった歴史の解釈は、信じている人には自明の解釈ですが、検証方法がないため、有意性に欠けます。このグループの人たちは「間違いであることを証明できない」ことを以て、真実性が証明されたと勘違いする傾向があります。冷蔵庫の牛乳が最後の審判を下すといわれても、誤っていると証明することはできません。

愛国的、国家主義的な歴史解釈は、事実の取捨選択の結果、全体的な事象の把握に失敗する傾向にあります。この手の主張で多く見受けられるのが「客観的な判断は不可能である」ということに主観的な判断の正当性を求めます。しかし、客観的に判断可能な要素にも主観を持ち込むため、中身のない議論に終始する傾向があります。また本来的に普遍ではないバラバラの概念をあたかも普遍的で統一的なものと考えるため、ある種存在の証明が困難な神がかった議論と同様の帰結をもたらします。

歴史の評価に何を重視するのか。概念的(主観的)を重視するならば、ある事実の中心的人物、その理想や考え方、先見性が歴史的事実の重要な構成要素になり得ます。ナポレオンが21世紀に同じ事をできないことを考えると、主観的説明だけでは不十分な説明となります。すなわち時代背景が存在しないことには事象が意味を持たないと言うことになります。

物質的(客観的)に捉えるならば、歴史的事象が起こるための経済的条件、環境的要因が重視されます。ノーベルが発明したダイナマイトが飛ぶように売れたのは戦争や産業といった条件が不可欠な要素である(つまりノーベルそのものが偉い訳じゃないし誰でも発明し得る)という説明になります。が、じゃぁノーベル以外の誰が発明したのか、ノーベル以外の何者でもないんじゃないかという疑問をもたらします。まぁ実際は概念的・物質的な考え方を混ぜながら議論を行うわけで、文脈的な判断が不可欠であります。

いずれにせよ、歴史的事象の判断、主張の判断には生のソースを判断することが不可欠であり、既に情報を取捨選択した主張をさらに評価して、その評価を評価して、そしてその評価に対する批判をしてってやっていくと、伝言ゲームよりもさらに深刻な齟齬が生じます。

なんでこんな事を書いているかというとWikileaksであります。ホワイトハウスの報道官などは先日暴露された情報が「断片的」であり統一性を欠いた情報に過ぎない、と主張しています。事前にWikileaksから情報の提供を受けたThe New York Timesとか各社が分析をして発表と同時に記事を公表、日本の新聞はそうした記事をあっさりと紹介。生の報告書と、保身に走った対外的な報告書とどちらが信頼がおけるか、ということには一切触れていません。通常、歴史的資料にせよ事実認定を行うための資料にせよ、その事実に近接した資料・証言の方がより信頼性があります。あえて問題を言えば認定プロセスを得てないことによる信頼性の低下。ただしこれは検証可能なものであり、権威主義的な信頼性の低下とは次元を事にします。

また、Wikileaksに対する批判の一つに、非合法な情報の入手が挙げられます。問題は、本来合法的に提供されるべき情報が違法に公表されず、その結果違法な手段による入手を強いられている場合、こうした訴えに説得力をもつのかどうか。日本のように民主主義を担保するための情報公開制度が額縁にとどまっている国と比べ、欧米では建前上は原則公開でかなり強力な原理として機能しています。民主主義においては、正確な情報が提供されていることが構成員たる有権者が重要な政治的決定を行うための条件であり、情報公開度が下がることで民主主義における政策決定能力は確実に低下します。

日本プロパーの疑問としては、なぜ政府が関与している公の領域にプライバシーと似ても似つかぬ個人情報保護といった概念がまかり通るのかまか不思議であります。もちろんWikileaksの公表している情報は軍事機密であり、法体系的には軍法というかマーシャル・ローの領域に入っているといってもおかしくはありません。しかし、イラクやアフガニスタンには多くの民間軍事会社が参入しており、マーシャル・ローとも別の法体系=無法体系が存在していることは公表された資料からも明らかです。論理上国外犯としてアメリカ国内で処罰することも可能ですが、どの捜査機関が訴訟進行上不可欠な証拠を保全することが出来るというのでしょう。だからこそ、軍人としての特別な義務と免責が定められたマーシャル・ローが(良いか悪いかは別に)存在するわけです。そうした範疇の外にある民間軍事会社の問題に国家機密が介在する余地があるのか、あるとすれば恐ろしく巨大な免責特権とその手段を企業に与えていると言わざるを得ません。

生の情報と公式に公表済みの情報との乖離は、情報公開のあり方に対して深刻な疑問を投げかけます。情報が容易にアクセス可能になることは、マスコミにとっての脅威にもなり得ます。このあたりもあってか、日本のマスコミ業界の情報公開に対する消極性には疑問の余地が残ります。生の情報という原点、そんなことを考えさせられた今日この頃。

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