2010年8月6日金曜日

情報があるということ

公的な情報は原則的に公開されなければいけないこと、これは現代の民主主義を支える重要な原理であります。重要な情報が欠落している場合に、正しい政治的な選択と決定など行えるはずもありません。情報公開が国益に適わない場合というのはおよそ対等な利害関係者との交渉に影響を及ぼす場合=他国との外交交渉過程や、公開された場合に一定程度以上の危険や危害が予見可能なことなど、ごく一部の現在進行形のことに限定されるべきであります。政治過程において終局的に決定すべきなのは主権者たる国民ないし有権者なのですから。政府が国益に適うか否かを判断して、専ら政府自らの活動の情報の公開を制限するのは、本末転倒であります。

日本の情報公開に関する議論のそれとは異なり、アメリカにおいてこの様な情報の公開に関して現政権が強調するのは、現地の軍事オペレーションやその利害関係者に危険を生じさせるということであります。先日のWikileaks による機密文書の公開はその意味で非常に興味深いものでありました。当然といえば当然ですが、当該戦闘地域における明らかにされてこなかった死者数や、軍事オペレーションにつきものの法的手続きの欠如、アドホック・場当たり的な判断。そんなことへの反論や正当化はどこへやら。情報を漏洩した個人やそれを手助けした組織が訴追され、刑務所に行くことはあっても、本来公開されるべき情報を隠匿した責任はただ政治的なものだけ。政府自体が刑務所に収監されることは、全くあり得ないのですから。それだけに、そうした政治的な責任は厳しく追及されて然るべきでしょう。

AB20100806

日本における情報公開は、個人情報の保護とワンセット同然で導入されました。個人情報はプライバシーと一線を画する概念ですが、わりと混同されていてやっかいなところ。政府が利害関係を持っているということは、本来的に公的な情報であって、当該文書に記載されている個人が異を唱えることが可能かは別にして、原則的に公開されるべき文書であります。それを政府が個人情報保護の名の下に十把一絡げに文書そのものの公開を拒否する場合、当該個人のには、政治的な判断をするに足りる判断材料を得る基本的な権利が侵害されている、そうした感覚の欠如が現在の個人情報保護を支えていることにある種奇妙な感を覚えます。

年金問題で社会保険庁のずさんさを挙げることは非常に簡単ですが、問題の根底にあるのは、公的な性格を持つ文書が適切に保管されていなかったこと。さらには、保管するために必要な制度設計や監督、予算の配分を本来監視するべき歴代政権ないし立法機関が怠ってきたという事実。必要だったのはシュレッダー機器ではなく文章を保管するための段ボールと保管場所だったのでしょう。

ともあれ、Wikileaks で一応非公開にしたとされる文章一式と思われる暗号化されたファイルがダウンロードできる状態にあるようです。情報を公開しないためのセキュリティという観点からするとこの様な方法には問題がありますが、情報を公開を担保するためのセキュリティとしてはバッチリ、そんな事を考えた今日この頃。

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