2009年4月5日日曜日

ちょこっと考える

先月宗教のセールスのおばちゃんがうちにきて、長々話をして帰って行きました。彼女自身は博識だったので話をしていておもしろかったものの、自分が受け入れられる話ではなかったのでお引き取りいただきました。ただ、自分の中で新しい発見もあったのちょこっと書いておきます。

話の前座としてちょこっと説明。宗教的な話を含め議論に対する自分の反応は、いくつかパターンがあります。1.自分の思考と一致するもの、2.自分の思考には反しないが一致もしていない(両立するもの、ベクトルの違うもの)、3.自分の思考に相反するもの、とまぁだいたいこの3パターンでしょうか。

神がいるかいないかに関しては、神をどういう風に定義するかの問題としてとらえているので、だいたいは自分の思考に反しないが一致もしていないというところに落ち着きます。自分のスタンスというか信仰は、特にないものの、無神論者でもないというのが実際のところ。んで、彼女の話の中で受け入れられなかったが数点。議論をしていても、そのあたりの話の進展がなかったので、まぁ哲学的に違うよねという話にはなるのかもしれません。

一つ目は、この世の中には科学で説明できない(証明できない)ことがたくさんあるよね、という理論。アメリカのどこだかの物理学者が聖書を読んで間違いだと証明できないと言った、というエピソードを彼女は紹介。彼女にとっては、科学的に存在しないことが証明できない、あるいは科学を超越した存在とのこと。これは、3K新聞でも時々紹介されているような話だけど、でも記号論理学的にみても結構やばめの話。まず、神の存在が科学的に証明されていて、それが科学的に否定できていなければ1-0=1、なので存在するという話。でも、科学的に存在することもしないことも証明できてない状態は0-0=0。だから真実は分からないよね、って話ではなくて、こうした言説は既存の科学的な法則を否定できるレベルの話じゃないことに注意が必要。例えば、「罰金刑」が規範として正しいかどうか生物学的なアプローチで否定できないからといって、罰金刑が正しいとか罰金刑は科学を超越しているものとか、そんなことは導けない。分かるのは罰金刑の分析が生物学的なアプローチとはなじまないということだけ。だから生物学は否定されるべきという話にもならない。

二つ目の話は、あらゆる事象には意志が必要であって、人の意志じゃないものは神の意志だという話。まぁこれは本当に信じるから信仰なんでしょうね、というレベルのお話。自分とか人の意志じゃないものはみんな神様の意志。おなかが減ったり眠くなったりどれもこれも、って違うような気がする。全ての事象に理由はあるのは認めるけど、意志とか理性まで求めるのは受け入れられない。

まぁ、結局のところこの手の人たちが神様ってよんでいるところと、自分が「マーフィーの法則」とよんでいところとかなり重複しているものと思われます。人によってそれを「偶然」と定義したり、「神風」と定義したり、でもそれに感謝するほど自分の中で合理的な理由は見つかりません。むしろ自分が関わったりしている人たちの方がよっぽど感謝に値するぐらい、自分の人生に影響を与えてもらっている気がします。

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